この道は、つづく。
ソロキャンプ時代も含めると、かれこれ6年ぐらいキャンプをしてきたけれど、行く度に思う満足感は、時々に異なる。
92年、大学の経営情報学部を卒業して映像制作のベンチャー企業で働いて約3年、擦れっ枯らしのように身を粉にしたものの、月に1日から2日休めたら良い状態で、2週間泊まり込みにも関わらず残業代が出ないなど、過酷なサービス残業でどうにも自分自身を摩耗させられ、空っぽになってしまった自分を取り戻す為に、僕は会社を辞めた。
その頃、自分自身が居る事を、自分自身の体を使って確認したくなり、軽い登山を始めた。
すこし自分の心のバランスを取り戻したものの、何をしたいのか、何を持って身を立てていくのか、
その時まだ24歳の若い自分には、行く末見えず、苦しんだ。
もちろん、いつまでも無職のままで良い筈も無く、資金がないことでアウトドアで遊ぶ事もままならず、いくつかの会社に勤めたもものの、自分に迷いがあるうちには、長続きせず、中小企業であった就職した会社もそれを見越して僕の首を切った。
27歳。
もういい加減に、自分を決めて働かなければ成らないはずだけど、焦りだけで何も考えらず、しかし、お金をもらえることが大事ならそれを割り切ろうと、バイク便で働き始めた。
就職超氷河期だった。
はじめは、”1から2年ぐらいかな。”と自分を思っていたけれど、人間不信/会社不信の自分にとっては、その立場のアンバランスさが性にあっていたのか、あるいは、バイク便としても、良いように使える人材であったのか、外資系の証券会社に派遣されるようになった。
バイク便ではたらく人間はおおよそ高卒であり、ガテン系の企業がほとんどである。
そんななか、一般企業での就業経験が有り、大卒であった自分は、やはり、使い勝手がよかったのだろう。
働く職場はメールルームであった。
日本企業でもメールルームは総務部付きで大きい企業ではあるのだけど、おおよその場合、定年間近の人や主流からはなれた人々がその職についている。
外資の場合には、日本社会での長期雇用を前提にしていない所為であるため、その業務は外部からの派遣や契約社員が業務をこなしていた。
そこに投げ込まれた自分は、今からして思えば、天命ということなのか、それとも、なんなのか、ともかく、妙な形で物流と金融という今の自分自身が働いている分野に飛び込んだのだった。
中略。
そして、その道で3年ひたすら地道にがんばった。
昨年の夏、転職して気がつけば働いているのは、東証一部上場の会社だ。
仕事は、比べれば、満足感もあり、将来も、真剣に考えることができるようになってきた。
本当にいろいろな事、いろいろな出会いが僕を形作ってきた。両親や、友人に大変に感謝している。
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